2014年

4月

06日

 

昨日にひきつづき、今度はBreaker Projectドキュメント用の取材。昨日とは違ったアングルで、O才と、Breaker Projectとの共同作業における3年間を総括するような話。2日前にも雨森さんが来て、インタビューのさわりの部分だけやって、人が来て中断したけど、その部分だけでもうすでに文字起こしが大変だったらしい。以前から何度か指摘されてることだけど、僕の発言には主語が欠けていて、しかもテーマがポンポン横にとんでくので、会話で理解した気になっていても、文字に起こすと意味不明、ということがざらなんだそうで。まあでもそこは気にせず好きに話してください、と了解を得ての取材だったけど、訊かれたことに対して本当のことだけを正直にこたえようとすると、活字にして人前に出してはいけないのでは?と危惧するような、ちょっと危険な考えが見え隠れして怖くもなる。たとえば人間関係においては、ときに口にしてはいけない言葉というものがあって、一言が、決定的に関係を破壊してしまうほどの暴力性を帯びることがある。でもそれって、自分自身のなかでも起こりえて、今この感情を正直に肯定してしまうと、他人との溝が決定的に深まってしまったり、自分の殻に閉じこもって出られなくなったりしないだろうか、という気持ちになることが、普段の生活のなかでもあるような気がする。僕は今、他人の世話になりながら、毎日ただ仰向けになって、寝たまま目覚め、寝たまま食事をし、排泄をし、疲労し、寝る、という生活を繰り返している。こうなる前から予定していたことは、ほとんど実現できない。でも、正直な気持ちをいうと、そこにあるのは悔しさだけではない。先の予定が一気に立ち消えてしまったことに対する安堵がある。人間って本来、何もやらなくても十分繁殖して生きていけるはずで、それでも勝手に何かやりはじめて、勝手にそこで役割をみつけて、勝手に責任を負って、どんどん膨らんで後に引けなくなる。正直僕なんてそんなたいした仕事も役割もないので、仕事が犠牲になるだけだったら、いつだって辞められるし、いつ無くしたっていいとおもってる。でも、仕事よりも大きく膨らんだ人や場との縁があるから、関係があるから、それを支えに生きているから、簡単には辞められないし、無くせない。そこを、怪我がすべて帳消しにしてくれた。怪我をしたおかげで、予定していた仕事を台無しにしても、誰からも責められない。実際には責められてるかもしれないけど、少なくとも僕の耳にそれは入ってこない。それどころか、ありがたい言葉をかけられ、いつも励まされている。もちろん台無しにしてしまったことは悔しいし申し訳ないし残念でならないけど、そんなことは当たり前で、最初からわかってたことだ。毎日の生活で犠牲になることも多い。でも、それだけじゃないということ。このまま本当にすべてが終わっていたらどうなったか、と考えてしまう自分もどこかにいるということ。かといって、じゃあこの状況を「うらやましい」とか言われてしまうと、「代わりましょうか?」となるし、これを書いている今この瞬間だって、外に飛び出したくて仕方がないのだけど。取材で話したのはもうちょっと違うことだけど、きわどいところも含めて笑い話にできたからよかった。それはたぶん活字にはならないだろうけど、話していて楽しかった。隣りのおじさんは自ら希望して病室を移ったようで、ここもまた静かな状態に戻った。これで、はぎしりのおじいさんも安心して寝られるだろう